折込や新聞を見て「キレイな庭だな」と思ったら、「樹木葬」の広告だったというパターンが増えている。
千葉や神奈川あたりの、海が見えるようなロケーションもあり、写真がきれいなのも当然である。
庭師とお墓は密接な関係があり、私も墓地で剪定や移植などをしたことがある。
時には雨に打たれながら他人様のお墓まわりの除草などをしていると、末代にわたって管理が必要なお墓はいかがなものかと考えさせられる。
樹木葬とは、文字通り、樹木の下に埋葬されることと思っていた。目新しいことではなく、気の利いた子供なら、死んだカブトムシ、金魚などのペットを土に埋めるとき、花を植えたりするではないかと。
ところが現代版、人間版はそうもいかないらしい。土葬の習慣が絶えて久しくなると気味が悪いとか、粗末に扱うと成仏しないとか、近隣の不動産価値が下がるとか、いろいろ考えるのだろう。
基本的には骨壷に入れられ、法によって指定された場所、方法で管理されるのだ。 そして、その歴史も浅い。
樹木葬は、岩手県の祥雲寺が1999年に始めたのが最初の例だという。本当にそうなら驚きだ。つい最近の話である。
いろいろなバリエーションの樹木葬があるが、墓石の代わりに樹木があると考えれば分かりやすい。しかも一人につき、樹木一本ではないところもある。
植える樹木も、その多くは低木である。早々に枯れたり、しょっちゅう植え替えたり、害虫にやられたりしたら興醒めであろうから、丈夫な樹種を選ぶのだろう。しかし、低木ではシンボルツリーとしての存在感がいま一つではないか。
かといって樹齢の長い、ケヤキやイチョウを使った場合どうなるだろうか。数百年後に巨木となれば、死者の怨念すら感じる末恐ろしいことになるだろう。やはり無難なハナミズキあたりに落ち着くのか。
理想は、実のなる木の下に土葬されることだ。
土として果実の栄養になり、果実は鳥に食べられ、その糞は土を肥やし、食べ残されたタネは新たな命になり・・・と考えているだけで楽しい。「樹木葬」という言葉から私が連想するのは、そういうものだ。
そしてそれが自宅の庭ならもっといいだろう。しかし当事者以外には薄気味悪い話であり、近所迷惑である。だからこそ、商品としての樹木葬が話題になるのであろう。
めぐりめぐってそんな結論に達した。
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