「庭木と心」に関するブログ記事

2013年

7月

15日

庭掃除の心

 庭掃除は面倒です。かつては私もそう思っていました。

 

 新人の植木職人は来る日も来る日も掃除です。朝、現場に到着してしばらくの間は、下草(サツキ、ツゲなど)の刈り込みをさせてくれる会社もありますが、仕事の大半は除草を含めた庭の掃除に明け暮れます。

 

 暑さ、寒さ、雨、蚊や毛虫との戦いはもちろん、時には相当に不快なものを処理しなければならないこともあります。嫌気がさして辞める新人さんも大勢います。というか感覚的には半分以上の人が、庭掃除の段階で辞めます。

 

 なぜなら目的や目標が見えていないからです。先輩職人が高い木に登っている姿は格好良いかもしれません。しかしそれは、ただの手段です。手を入れなければいけない枝が高いところにあるから、木に登っているだけです。

 

 街路樹などの公共の仕事は別として、個人の庭の手入れをする第一の目的は「景色を作る」ことです。景色を作るのは高木に限ったことではありません。上空も大事ですが、それ以上に、風景を描くキャンバスとなる地面を整然とすることが重要です。

 

 植え込みの中に跪いて手ボウキで地面を掃くのは、情けない下働きのように見えますが、キャンバスを磨いていると考えれば俄然やる気が出てきます。そうした心境に達することができなければ植木職人として独り立ちしても、毎日がつらいだけです。

 

 しかし実際には、そうしたことを教えてくれる先輩は少なく、経験を積む中で、自分で気付かなければいけません。

 

 夏の暑さや冬の寒さに耐えて庭掃除を続けているとある時から、肩の力が抜けて、庭に吸い込まれるように自然な作業ができるようになります。樹木の根が張っている向きに応じて箒を使ったり、掃除をしながら不要な下草を瞬時に剪定したりと、自然の求めに応じて迷わずに身体が動くようになります。

 

 やがて庭木の剪定も経験させてもらえるようになります。始めのころは目前の剪定に夢中ですが、経験を重ねると再度、地面の掃除の大切さに気付きます。そしてその頃には高い木の剪定に憧れるより、庭全体の景色の出来栄えに関心が移ります。

 

 西芳寺、天龍寺、恵林寺の作者であり、禅の庭を創造したとされる夢想国師は、一時代を築いた僧侶です。自然の中で修業し、自然の美からエッセンスを学び、修行として庭造りをしています。

 

 この文脈で高僧を登場させるのは、おこがましいのですが、庭掃除をしていると、いつもその名前が頭に浮かんできます。

 

 庭好きの方が愛着を持って自分の庭を掃除していれば、自然の求めに応じて、掃除せずにいられなくなるはずです。自然と一体になった感覚で庭掃除ができれば、苦痛であっても苦痛に過ぎなくなります。

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2013年

3月

12日

雑草とイマジネーション

 ウメの花が見頃を迎えるとともに、ちらほらと「雑草」が顔を出すような時季になってきました。

 

 よく言われることですが、「雑草」という名の植物はなく、話し手がその名前を知らなかったり、人間にとって利用価値が低ければ、まとめて「雑草」として片付けられるに過ぎません。

 

 街中では、植え込みの中へゴミを捨てる人や、植栽の枝が折れそうな位置に腰掛けている人がいますが、例えば盆栽をやっているような人は、けっしてそういったことはしないと思います。

 

 それは、その人が「サツキ」ならサツキを、「サツキ」として認識しているからです。

 

 また、建造物の少ない郊外に出かけた時、植物に興味のない人は、「この辺って、何もないね。」で片付けますが、植生に興味がある人にとっては、宝の山となります。

 

 何が言いたいのかというと、同じようなことが人間関係にも言えるのではないかということです。

 

 名前を知っている人の前では、礼節をわきまえているような人でも、見知らぬ人の中では、「他者」を「他者」として認識するイマジネーションが働かず、自分勝手に振る舞うことがあります。

 

 二十四時間、気遣って生活していたら精神的に参ってしまいますが、「それ」を「それ」として認識するかどうかで、人間の態度が変化するというのは、おもしろいことだなと、「雑草」という言葉を見聞きする度に思うのです。

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2013年

1月

16日

樹木葬とは

画像 樹木葬とは

 折込や新聞を見て「キレイな庭だな」と思ったら、「樹木葬」の広告だったというパターンが増えている。

 

 千葉や神奈川あたりの、海が見えるようなロケーションもあり、写真がきれいなのも当然である。

 

 庭師とお墓は密接な関係があり、私も墓地で剪定や移植などをしたことがある。

 

 時には雨に打たれながら他人様のお墓まわりの除草などをしていると、末代にわたって管理が必要なお墓はいかがなものかと考えさせられる。

 

 樹木葬とは、文字通り、樹木の下に埋葬されることと思っていた。目新しいことではなく、気の利いた子供なら、死んだカブトムシ、金魚などのペットを土に埋めるとき、花を植えたりするではないかと。

 

 ところが現代版、人間版はそうもいかないらしい。土葬の習慣が絶えて久しくなると気味が悪いとか、粗末に扱うと成仏しないとか、近隣の不動産価値が下がるとか、いろいろ考えるのだろう。

 

 基本的には骨壷に入れられ、法によって指定された場所、方法で管理されるのだ。 そして、その歴史も浅い。

 

 樹木葬は、岩手県の祥雲寺が1999年に始めたのが最初の例だという。本当にそうなら驚きだ。つい最近の話である。

 

 いろいろなバリエーションの樹木葬があるが、墓石の代わりに樹木があると考えれば分かりやすい。しかも一人につき、樹木一本ではないところもある。

 

 植える樹木も、その多くは低木である。早々に枯れたり、しょっちゅう植え替えたり、害虫にやられたりしたら興醒めであろうから、丈夫な樹種を選ぶのだろう。しかし、低木ではシンボルツリーとしての存在感がいま一つではないか。

 

 かといって樹齢の長い、ケヤキやイチョウを使った場合どうなるだろうか。数百年後に巨木となれば、死者の怨念すら感じる末恐ろしいことになるだろう。やはり無難なハナミズキあたりに落ち着くのか。

 

 理想は、実のなる木の下に土葬されることだ。

 

 土として果実の栄養になり、果実は鳥に食べられ、その糞は土を肥やし、食べ残されたタネは新たな命になり・・・と考えているだけで楽しい。「樹木葬」という言葉から私が連想するのは、そういうものだ。

 

 そしてそれが自宅の庭ならもっといいだろう。しかし当事者以外には薄気味悪い話であり、近所迷惑である。だからこそ、商品としての樹木葬が話題になるのであろう。

 

 めぐりめぐってそんな結論に達した。

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2013年

1月

02日

屋上緑化?

 新聞を読んでいたら、屋上緑化会社のフューチャーズプランとかいう会社が出資金を集めながらも株式公開せず、返金もせずに休業状態に陥って提訴されているという。

 

 ことの詳細は知らないが、屋上緑化をネタに16億円も集まるのだから、余程、話術が巧みであるか、エコブームを背景にした世間の関心が高いのだろう。

 

 確かにコンクリートのビルは味気なく、また夏の暑さが半端ではない。デッドスペースにもなりがちな屋上が緑で覆われれば、多少は涼しくなるであろう。

 

 私もかつて屋上に庭園を作る仕事をしたことがある。エレベーターを使って大量の資材を屋上に上げるのは大変な作業であり、その辛さだけがやたらと記憶に残っている。

 

 もちろん「パーライト」といった、土に代わる軽量の資材も使うのだが、長期的に見ても剪定やドレインの掃除といった管理は大変であろう。また、潅水のコストや建物躯体へのリスクもある。

 

 最近ではセダムや常緑キリンソウ、リュウノヒゲマット、あるいはコケを屋上緑化に使いましょうという動きがあるが、やはりこうしたグランドカバーにとどめるのが賢明であり、大きくなるような木は植えない方が良い。

 

 屋上に限らず高層マンションのベランダなど、風が強く、乾燥しやすい場所に庭木を植栽したことがあるが、数年後に様子を見ると、どの現場の木もあまり元気がよろしくなかった。元気なのは排水溝から生えている実生の雑木くらいのものであった。

 

 屋上に緑があるのもいいが、「木は地面から生えている。」、それが自然の状態であろう。不自然なことに力を入れると、結果も不自然になる、そんなことを考えさせられた記事であった。

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